日田古代の謎 by 関裕二氏・九州国立博物館
                    ☆ 邪馬台国は本物と偽物があった!☆

 もし。本居宣長が今も生きていて日田の地勢・鉄鏡・小迫辻原遺跡を知っていたら邪馬台国の謎をすべて解き明かしていたに違いない。そして本居宣長は今の九州説と畿内説の対立をみて、腹を抱えて笑っていたことでしょう。(両方とも邪馬台国だったのだから対立する事はないのにね)
   (関裕二氏・月刊歴史街道よりの引用)

 江戸時代の本居宣長は畿内のヤマトの国号を北部九州の勢力が勝手に使用し、自らが「ヤマト(邪馬台国)」であったと主張してしまった」と推理している。これが邪馬台国偽僭説である。

邪馬台国は江戸時代には決着していたのだった!!
 
  『いま、なぜ日田なのか』  関裕二

 失礼なことをいうようだが大分県日田市といっても、ほとんど無名の地である。
まして、邪馬台国論争と日田のつながりについて、これまだまったく語られることがなかったと言っていい。
 しかし、これから十年後、「日田」は、邪馬台国を語る上で避けては通れない場所になっているに違いない。
三世紀前半、つまり、邪馬台国から大和へ、という時代の節目に、この日田には大和の勢力が進出していた。これは筆者の勝手な推理ではなく、考古学的に裏付けられていることだ。
 瀬戸内海の制海権を確立した「大和」は、この日田の地にまで勢力圏をのばしていたのである。地形的に、日田をとったものが九州を制することができるからだ。北部九州の中心筑紫平野には筑後川を下れば一気に出られ、しかも日田は天然の要害で、西側からの攻撃にすこぶる強かった。そしてこの地からは、後漢の王族しかもてなかったという金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土している。いったい、どのような人物が、このような宝物を持ち得たというのか。
 それは卑弥呼か、はたまた大和の大王か・・・・日田が邪馬台国に関わってくるのは、北部九州と大和の相克という視点が大切になってくるからだ。おそらく、久留米から山門郡にかけての一帯を支配していた邪馬台国の卑弥呼と、これを制圧すべく日田に遣わされた大和の王族── 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を持った日の巫女と思われる───との戦いが、日田の盆地と久留米の高良山周辺で展開された・・・・・・そして、卑弥呼と敵対していた日田の「巫女」こそが、のちに卑弥呼の宗女として邪馬台国を継承した「台与(とよ)」だったのではあるまいか。
 日田が筑紫(福岡県)の文化圏経済圏にありながら大分県に組み込まれ、これが大分県の原型「豊国(とよのくに)」からの伝統であったのは、大和からの勢力・・・しかもそれが「トヨ」で・・・・が日田におよび、「トヨ」の名がそのまま国名になったからであろう。
 このような推理は、まだ認知されていないが、日田周辺の発掘が進めば、いよいよもって、邪馬台国と日田の関係が注目されるのちがいないのだ。そして、それはそう遠い話ではないだろう。
 

   何故、豊臣と徳川は日田を直轄地として九州を統治したのか。東国から九州を軍事的に統治する時、日田に楔を打ち込ものが鉄則なのである。台与の時代、ヤマトは日田に軍事司令部を設置し偽邪馬台国を滅ぼしたのだった。それは日本書紀の田油津媛(偽卑弥呼)

 
神功皇后こと天照大神が日田に進出して、日田から九州を統治していたとした・・・ら。そして、素戔嗚尊=武内宿禰=浦島太郎(日下部)も日田に一緒に来ていたら。そしてその子どもが日田で誕生し神武天皇や応神天皇だったらば・・・そんな可能性もみえてく本です。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡より天照大神(台与・本当の卑弥呼)と素戔嗚尊の鏡であろう。

             ☆ 九州国立博物館が認めた日田出土・卑弥呼の鏡? 
       

                       日田市三芳(TBSアナの江藤愛ちゃんの生誕地)出土
九州国立博物館の4周年「古代九州の国宝」特別展で配布された実物大の「うちわ」 卑弥呼の鏡か?とまで書かれた異例の取り扱い


九州国立博物館の赤司氏は、『魏志』倭人伝の銅鏡100枚の次の使者の時には鏡という記述で銅鏡とは書いてないことから、この時に魏から
もらった可能性はあるという解釈なので、卑弥呼の鏡?という記述につながったようです。これだけ素晴らしい鏡は、相当の権力者しか持てな
いでしょう。

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