穴井六郎右衛門(1676‐1746)は馬原村(同市天瀬町)の庄屋。

十三カ村に呼び掛けて630余人の連判書を集め、重い年貢の減免を幕府に直訴した。10カ月間の投獄後、他の2名とともに処刑され、校区の財津町の龍川寺住職が亡きがらを寺に葬った。



大分放送 obs


大分朝日放送 大分情報大百科 より

江戸時代、幕府の直轄地・天領として栄えた日田市。かつてこの地に、代官の悪政に苦しめられる農民を救うため、命を投げ捨てたある庄屋がいました。1746年、日田を舞台に起こった馬原騒動(まばるそうどう)の先頭に立った男、穴井六郎右衛門(あないろくろうえもん)です。

 六郎右衛門は、1676年、庄屋の長男として、現在の
日田市天瀬町馬原に生まれました。家は広さ112坪の大きな屋敷で、いまも敷石が残っています。凶作に備え、水路の改修などを積極的に行い、農民達の厚い人望を集めていました。

 そんな中、
八代将軍・徳川吉宗享保の改革を進め、1734年には日田代官として岡田俊惟(おかだとしただ)が着任します。岡田代官は、凶作の際に農民を救済するために取って置く「助合穀(すけごうこく)を商人に売って自らの利益にするなど、身勝手な政治を展開。一方で、食べるものに困り、餓死する農民の姿を目にした六郎右衛門は、私財を投げ打って食糧を配ったり、代官に減税を訴えに行くなど、救済に努めましたが、代官は耳を貸しませんでした。

 業を煮やした六郎右衛門は、ついに
江戸幕府に直訴することを決断。当時、彼を筆頭に秘密裏に話し合いをした際に書かれた証文や、直訴状の写しが日田市立郷土資料館に残されていました。証文には、血判がついていました。つまり、この会合に参加すること自体命がけだったのです。

 1745年12月、六郎右衛門は、次男の
要助(ようすけ)と組頭の飯田惣次(いいだそうじ)とともに、直訴状を携えて江戸へ出発。翌年1月に、一行は無事江戸に到着します。しかし、奉行所で訴状を差し出そうとしましたが、断られてしまいます。そこで、六郎右衛門は、目安箱に入れました。

 事情を知った吉宗は、日田に検使を派遣する一方、ご法度である直訴を行った六郎右衛門たちを捕らえ、投獄します。また、日田では岡田代官が密告者の調査を開始しました。

 10ヵ月後、六郎右衛門たちは釈放。幕府から代官の悪政が認められ、断罪されたのです。喜んで日田に帰郷しましたが、そこで彼らを待ち受けていたのはあまりにも残酷な結末だったのです。代官に捕らえられ、その3日後に浄明寺の刑場で処刑されてしまいました。

 その後、日田の龍川寺の住職が、3人の遺体を密かに持ち帰り、境内に埋葬しました。お墓には、代官に配慮して3人の名前を少し変えて刻まれていました。

 命を投げ捨て、農民の救済に尽くした穴井六郎右衛門。彼がいたからこそ今の馬原があると、地域の人々はいまもその功績を称えています。

inserted by FC2 system