-->

 漫画家・久世みずき先生の
20ページ日田の歴史イラスト集!
2024/1/27

主催:日田歴史発見講座伊藤塾 
構成・イラスト・編集 伊藤塾スタッフ 久世、佐々木、石橋
後援:全国邪馬台国連絡協議会九州支部 

今後、小学校や関係先へ配布したいと思います。歴史を身近に!


「 まほろば日田への思い 」 漫画家 久世みずき

 大人になるまで日田の歴史や観光にあまり興味がなかった私が故郷について調べたいと思ったのは、上京後に仕事先で日田に興味を持ってくれた方に何の説明もできなかったり、地元でも日田の話題に同調できないことを残念に思ったからでした。

 そうして調べ始めると、日田はとても魅力的なものに溢れていて、私は前以上に日田が好きになったし、不思議なことに自分の中に何か一つ芯が出来てきたような気がします。
 『まほろば日田』は見た方が前より日田を好きになったり、日田の魅力を再確認できるイラストになるといいなと思いながら描きました。日田の美しさが少しでも伝わりますように!

  
   
火山という神仙、火山思想にそして太陽信仰と月神信仰の謎に迫る
縄文そして弥生というペルシャから中国そして日本という文明をたどる


倭国大乱の終焉

今年も、楽しみ。私をいろんな場所に導いて頂く、仲間に感謝です。
豊国の本当の重要性そして国東という地勢的意味の奥深さ。玄海、瀬戸内、豊後水道というもの。
豊後水道と有明と玄海という海族の意味が、ここ日田に隠されているのです。

大原=大波羅という海神です。左下の画像の大原神社の扁額こそ、日田が海を暗示している。
日は太陽であり、月は田と鷹を意味する。 

『豊後国風土記』の久津媛(比佐津媛)は。『古事記』の出雲の国作り祖である、
岐比佐都美、(別名:来日田(来日羅))と同一神である可能性があります。
 田=羅(↑)は「た」=「ら」。そして月に通じる
大原は大波羅であるから、大波田という秦氏に通じる

八幡神と稲荷(秦氏)の根源がこの日田にある。
そして元伊勢のルーツは、丹後(渡会氏が内宮に立ち向かうために創り上げたもの)でなく
日田と飛騨にある。飛騨高山も飛鳥鷹山であろう。
(元伊勢と渡会氏は、山本ひろこ氏の『中世神話』を参考)

そこに鉄鏡という大きなつながりもある。

この日本に日田と飛騨という”大倭日高見”という二つの大きな国があった。
 邪馬台国日田説



邪馬台国論争に大きな落とし穴が存在している。古代の王権が居住する場所は、基本、地政学的に、国の中心であり、そして大河の上流部の盆地的な場所に置かれる。奈良や京都や朝鮮半島もそうである。中国も。
もう一つの可能性は、海を制覇する王権は決して海岸線ではないことだ。長野に安曇野という海人、安曇に由来するもの。
日田の地から、豊後水道、玄海、有明海を支配するには、日田、玖珠という地を選び、海を利用し、海へ達する必要な交通手段だったのです。日田は九州の総司令部的な指令を発信する場所。もちろん、豊臣も徳川も日田を直轄地として九州に睨みをきかせていた。

日田は巫女の集団が存在していた。巫女は、各地の情報を集め、宗教的、祭祀的により、統治していた。そして、神仙思想的な地勢を持つ、日田を熟知していた。徐福でさえ、筑後川を遡上し、日田の地勢的存在にびっくりしていたと思う。



日田は、太陽と月の聖地

日田盆地の中に、日隈、月隈、星隈という小高い山が存在している。「日月星辰」の現れである。
日田は、竜宮という海の存在であり、宇宙を示す地なのです。竜宮の豊玉姫はこの日田に存在してた。伊勢神宮の本当の元伊勢は、この日田である可能性も秘めている。

日田には、口の中に、-と+ が含まれる。これは陰陽という、男神と女神を意味している。天照大御神の男神と女神という二面性を示している。日田は、『豊後国風土記』の久津媛(比佐津媛)という「ひさつひめ」という神を記述している。
日=太陽であり、佐=補佐する意味が含まれる。宇佐も鵜・佐であろう。



日田の意味は、卑弥呼と神武天皇を示していることである。

 歴史作家、関裕二氏は、著書の中で神武天皇と応神天皇が「日田から出発したという。日田での講演会では、日田が天皇家発祥の地と言っても過言ではないと発言しています。

神武天皇は九州西側と東側の融合の存在としての存在ではなかったか。

 宇佐神宮は、日田の鬼門方向に存在している。その意味は、ヤマトが恐れた日田を封印する理由ではかなかったか。
日田には、すえ恐ろしい、「神」が存在している。ヤマトに祟る神。大物主神も、その神を祀っている。
鳥越憲三郎氏は、大国主神も須佐之男も、本当は地方神であるという。名前を借りただけのもの。
その大国主神の本来の姿は、この九州の神であり、大己貴命(朝倉・都農・英彦山)、大穴持神、葦原色許男。

出雲の創世は日田(ひさ)神(ひだかみ?=大倭日高見国)

 出雲の創世は「アメノホヒ」と言われるが、これは後にに追記されていると言われている。その意味を証明するかのように『古事記』には、出雲の国作りの祖は、岐比佐都美(きひさつみ)の別名:(来日曰維積命、来日田維命、来昌維績命、来昌維命、来日田准命、来日田維穂命、来目田維穂命など)であり、日田と由縁がありそうだ。『豊後国風土記』に登場する日田の地名の起こりである比佐津媛(ひさつひめ=久津媛)と名が同一視される可能性があります。

 岐比佐都美(相撲の神・野見宿禰の可能あり)は、男性と考えられるし、反面、、水の威霊を負って神や貴人に仕える巫女(=「水の女」=瀬織津姫の可能性あり)とする考え方もあります。
 日田は古代、八衢(高木彬光など)という場所であり、天孫降臨地という説もあり、八岐大蛇にも通じる場所である。

 岐比佐都美の岐の意味は、八衢という岐と鬼という岐(鬼)を伝えるものである。英彦山に来た、役行者が二匹の鬼を連れてきている。それも前鬼と後鬼という男と女である。この鬼は、吉野(鬼の意味・みよしの)や葛城を意味し、伊邪那美的伊邪那岐的な、鬼になった神が、英彦山で最後の鬼が人になった伝承ではないか。日田中世の大蔵氏(鬼の家系)は、後鬼という女神が先祖である。そして英彦山の近くに岳滅鬼山という山が存在しています。最後の鬼が滅亡した山を意味するものかもしれない。
 この英彦山は日子山であり、忍穂耳命を祭神しているが、日子山は大己貴命と宗像三神が本来の神なのです。その英彦山を創建したのが日田の藤原恒雄(豊国法師)という人物。もしかしたら、天のタリシヒコの可能性もあり、葛城の祖の可能性もある。葛城は日田に由縁のある氏族であり、神武東征や日田の鳥羽宿禰は葛城直と記述されている。直とは祖の意味があると言われている。
 日田の藤原という姓は、中野先生は、後に付けられたという。本来は秦氏である。秦氏は葛城、蘇我へとつながる可能性を秘めている。これは余談だが、大田田根子という祟りの神は、大原(大波羅・大波田・大秦)に通じる「鷹」神である。

久津媛とは誰か?女神か男神か?泉津日狭女?(伊邪那美)
 宇佐神宮の祭祀は、応神天皇ではないと私は感じている。宗像三女神かヒメゴソか鹿児島(本来はかぐしま)神宮の縁がある大比留女(おおひるめ)か、神武天皇かと判断はついていません。宇佐の伝承にはありませんが、『六郷開山仁聞大菩薩本紀』によると、大比留女は宇佐神宮の二之御殿に祀られている姫大御神である。という。
 大比留女は「晨旦国の太宗(の姫の)胎内より御誕生の時、其の家の上に八の幡、空より天下りたる。其の椌船に八の幡を副て、海上に放たれけり。仍て此の太子を八幡と名づく」とあります。
 ちなみに折口信夫は「天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむちの神であつた」という。「日の神の妻」だと。
 また、『八幡愚童記』巻下末によると、震旦国の陳の大王の娘の大比留女は七歳にして懐妊した。 父王が怪しんで尋ねると、娘は「仮寝たりし時、朝日の光胸に差掩と覚へて、孕処也」と答えた。 王はさらに驚いて、誕生した皇子を大比留女と共に空船に乗せ、「流れ着ん所を所領とし給へ」と大海に浮かべた。
 船は日本国鎮西大隅の海岸に漂着した。 皇子を八幡と号したので、船が着いた場所を八幡崎と名付けた。 これは継体天皇の御宇の事である。 大比留女は筑前国の若椙山(若杉山)へ飛び入った後、香椎の聖母大菩薩(香椎宮[福岡県福岡市東区香椎4丁目])として顕れた。 皇子は大隅国に留まり、正八幡宮に祀られた。 大隅国の元の住人である隼人は敵心を成し、八幡を追却しようと合戦したが、打ち負けて頸を切られた。 八幡が隼人を打ち取った御鉾は隼風鉾と名付けられた。
※八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
 
 深くは書かないが、実は、安心院の三女神社は、筑紫の君 磐井 との縁を示していたのを思い出した。磐井の数年後には、日田の藤原恒雄(豊国法師)が英彦山を創建している。

 遠回りしまいたが、大己貴命と三女神的なものが久津媛であり、久津媛は神として登場し、人になりかわり景行天皇の前に現れている。景行天皇も「影=景」であり、影同士が会ったということだろうか。久津媛伝承とは、徐福からつながる神仙思想の流れを意味しているのではないか。

久津媛(比佐津媛)には、詳細は割愛するが、出雲大神の意味もある。
 垂仁天皇の息子である本牟智和気御子が言葉を話せない理由が、出雲大神の御心による祟りであると太占によって判明し、御子は大神を参拝するために曙立王と菟上王を連れて出雲へ訪問する。大神を拝み終えて都へ帰る際、肥河の中に黒い皮のついた丸太橋を作り、仮宮を建てて御子をお呼びした。出雲国造の祖である岐比佐都美が青葉の山を川下に飾り立てて、大御食(おおみけ)を献上しようとした時に、御子が言葉を発して「この川下にある青葉の山のようなものは、山に見えて山ではない。もしかして、出雲の石硐(いわくま)の曽宮(そのみや)にいらっしゃる、葦原色許男大神を奉斎する祝(はふり)の祭場だろうか。」と質問なさった。

日田の高住神社は豊日別という葦原色許男大神か。
葦原色許男神(アシハラシコオ神)はオオクニヌシの別名の一つ。芦原は葦の生える原という意味で、日本を指しています。葦は非常に生育の早いエネルギッシュな植物で、これに霊性を感じていたようです。

シコオというのは、おそらく「強い男」「強い霊力のある男」という意味でしょう。ヨモツシコメ(黄泉醜女)と同じような名前の付け方です。古事記ではシコオに「色許男」という、「ハンサム」というニュアンスの漢字が当てられていますが、日本書紀には「葦原醜男」という黄泉醜女と同じ「醜」が当てられていることから、そもそもこの二つには共通するところがあったんだと思います。

 黄泉醜女(予母都志許売、豫母都志許賣、泉津醜女)黄泉国訪問の段に登場する。『古事記』では豫母都志許賣、『日本書紀』では泉津醜女、別名を泉津日狭女(よもつひさめ・よもつしこめとする。
 黄泉醜女は『記紀』では鬼という表現はないが、私見は鬼である。宮崎の都農は「角=つの」であり、鶴は角の意でもある。敦賀も角。都農神社は大己貴命であり、鬼であると思う。英彦山は元々大己貴命が創建されたという。英彦山に鬼の伝説がつきまとうのもその理由であろう。
 英彦山の大分県側の小鹿田焼のおん=鬼であり、小野という地名も鬼である。月神は、鬼であり大田田根子的存在でもある。

田は黄泉の国である。そして日田の大原神社の大元だと私は思っています。

※シコ(志許、醜)の語句について、ヨモツシコメの場合は黄泉国の醜い女の意とされる一方、同じくシコを名に持つアシハラシコヲ(葦原色許男、葦原醜男)は、葦原中国の醜い男の他に強い男の意とされることがあ
る。また、葦原中国にも通じるかもしれない

日田卑弥呼は祭祀的、風水的、神仙思想的なシャーマニズム

 卑弥呼は、九州説と畿内説に大分けできる。畿内は圧倒的に纒向。九州はバラバラ。
 シャーマニズムの原型は、 日本、韓国、台湾、中国大陸、東南アジアなどにおいては、脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多いという。
 邪馬台国については、『魏志』記述する場所と日本の考古学は結びつかないと私は思う。少なくとも当時の権威は、鉄や鏡であり、卑弥呼の時代までは圧倒的に九州である。卑弥呼と台与の時代の移り変わりに大きな政権的変化が起きている。卑弥呼の後にたった男王の存在を問う人は少ない。私は、男王は重要な存在であると感じています。卑弥呼の身内なのかそれとも敵対する勢力だったかで変わってくる。
 卑弥呼は日向(ひむか)や日巫女という話もあります。私は、どちらかと言えば「ひむか」でしょうか。日田は日向郷という説も存在します。

(故)古村豊氏は、直線上に並ぶ日向は、日田が日向郷(冬至・夏至)の地勢的理由を述べています。古村氏は日田邪馬台国説です。
 また、相模国風土記には「当郡の郷名に 日田あり、日向と字形相似たる」「 三之宮村伝に、日向は比々多の転訛なんかと」 ※日田=日向を書いたもです。


久津媛神社のある山は会所山(よそやま)と呼ばれていて、左図の龍の頭の姿をしており、右図の日田市内の平野部は女性の子宮に見えたり、龍の顔だという説もあります。龍は、水神様でもります。

日田の地形そのものが、本当は、地理風水でいう理想郷なのです。右図は昭和初期に日田の地形を描いたもので、左図と中図は、中国や朝鮮半島での理想郷を描いたものです。
祭祀の卑弥呼だったら、地勢的、風水的、神仙思想から日田を選ぶでしょう。


天照大御神にちなむ笠縫邑(むら)の真実とは 
笠縫は由布院から日田そして山国にかけて?

 万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んでいる。実は別府の猿で有名な高崎山が四極山との説があります。
 宇佐嶋は、安心院説があります。海の島ではない可能性もあります。笠縫邑とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所なのです。
 大阪の笠縫邑は、今の大阪の東成区ですが、昔は「大鳥」と呼ばれていました。。「笠縫邑の謎」の項に略記したが、『聞書覚書』には、[小夫は多部(多氏の居住区)にして神八井耳命の苗裔」だと。神八井耳命とは阿蘇に縁が深い。
 また、(故)大和岩雄氏 は『秦氏の研究』で「豊国の奇巫」を秦王国の巫とみる。 彼らはわが国の巫とちがって、道教的要素や朝鮮の巫親がおこなう巫術をもっていたから、一般の巫に対して「奇」巫であったのだろう。豊国の奇巫は和泉国大鳥郡に住み・・彼らは、本来は、秦王国の人たちで、秦氏系であった・・・巫部は秦王国の巫であった。そのことは、豊国から来た霊たちが、大鳥郡に居住したことからいえる」。

 そしてもう一つ重要なことがある。大田田根子である。大田田根子の出身は『日本書紀』によると、和泉国大鳥郡陶器荘『古事記』によると、河内国美努村(現・八尾市の出身)という。
 これは偶然だろうか?そして和泉国大鳥郡には大鳥神社が存在し、主祭神は日本武尊と大鳥連祖神。これは、何を意味しているのか?日田の国造りには鳥羽宿禰という人物がいる。葛城直であり、『姓氏大辞典』には神武東征のときに日田の葛城直が同行したという。
 
剣根命の末裔に止波宿禰そしてもう一人、荒田彦足が存在している。大阪の堺市に陶荒田神社がこの荒田彦の祭神です。日田市に有田という地名があり、荒田が有田になったとという。玖珠にも荒田の地名があります。
 鳥羽とは「鳥」の意味を示していて、ちなみに、猿田毘古が死んだのも鳥羽です。出雲の雛鳥などは太陽信仰ともつながっている。
 陶荒田神社は、御祭神は高御産巣日神(英彦山=高(鷹)木神社)と剣根命、八重事代主命で崇神天皇七年に太田田根子が創建したとあります。そして、高魂命の五世孫の剣根命の子孫である荒田直祭祀を行っていたことから、地名の陶と荒田を合わせ陶荒田神社となったとのことです。高御産巣日神は『古事記』剣根命は神武朝によって葛城国造に任命されたと言われるように、大和国の葛城(役行者)にも縁があります。
 『新撰姓氏録』で大和国の神別氏族である葛城忌寸かつらぎのいみきと河内国の神別氏族である葛城直剣根命の後裔氏族と記されていますが、陶荒田神社の祭祀を行ったという荒木直は、伊勢内宮の荒木田との関係もあり得る。
 実は、元伊勢はこの日田と御食(下毛郡)だった可能性があります。
鳥羽と荒田彦は、兄弟的な、振根・入根そして天若日子と阿遅鉏高日子根神にも通じる感があります。荒田は、天照大御神の荒魂の瀬織津姫に通じるかもしれない。
 天照大御神とも言われる、持統天皇。持統の姉が太田です。大田皇女には大鷹という意味、荒魂の意味があるように思えます。大田皇女は九州に行っている。そこで、本当の天照大御神を悟った可能性があります。

英彦山が意味する天孫降臨

 英彦山は「天孫降臨」の場所だった。これまで少数的には語らるものだったが、私は、この英彦山こそ、天孫降臨の原型だったとここ半年だが確信するようになった。

 何故なら、英彦山は元々「日子山」であって、太陽の御子という意味にもつながる。英彦山神宮のホームページに「英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれている」。余談だが、田川香春岳(香春神社)も同じ天忍穂耳命を祭神している。

 英彦山神宮の社殿が出来たのも、崇神天皇の41年とされ、時代は古く、縄文遺跡もある。一般的には英彦山の歴史については新しい時代のものと言われるが調べて行くと「英彦山縁起」にも徐福伝説が書かれ、筑紫から英彦山へやって来て「不老不死」の薬を隠したという記述まで書かれているではないか。どうも歴史が消されている。


 「天孫降臨神話」



 天孫降臨神話は、日本神話において、瓊瓊杵尊命が、天照大神の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)った物語りである。

 瓊瓊杵尊命は天照大神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神が案内をし、瓊瓊杵尊命は筑紫の日向の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である



「英彦山に関わる高木神と天忍穂耳命」



 『記紀』神話で始めて生まれてくる神が天御中主尊と神皇産霊尊と高皇産霊尊で別名が高木神である。英彦山から筑豊にかけて高木神社が多く存在している。

 また英彦山神宮の御神徳では「その昔、鷹の姿をして東よりこの地に現れた稲穂の神、農業神で知られる天忍穂耳命。英彦山神宮は神様のご神徳により、農業生産、鉱山、工場の安全の守護神また、勝運の神様として古来より崇敬されています」と書かれている事からも、鷹=天忍穂耳命を言い伝えているのである。

 天孫降臨を命じたのは高(鷹?)木神と天照大神の二人で当初、天孫降臨をする予定だった神は天忍穂耳命(英彦山・香春岳)であったが天忍穂耳命が天孫降臨の準備をしていた時に、天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギノミコト)が生まれたので天忍穂耳命が自ら、この子を降ろすべきでしょうと言った。

 邇邇芸命の名前にもひこひこという、日高(日鷹)と日子(天照大神の子)という名(諡号)が付いているのにも日田と彦山の関連を思い出させる。

天孫降臨は南九州の高千穂と霧島と日田と福岡市の日向峠などの候補地がある。天孫降臨と日田の関係を書いているのが、澤田洋太郎氏と高木彬光氏と関裕二氏。

 澤田洋太郎と高木彬光は、日田の郷土史家「福本英樹」の影響を受けて日田は猿田彦の天の八衢であると仮説し関裕二は日田から鹿児島の野間岬へ天孫降臨したと紹介している。八衢(八又)とは「八方に別れる道」の意味で交通要所の地であるから、高木彬光氏は日田を注目しているのである。

  私の仮説している英彦山から天孫降臨が始まり、その途中の天の八衢(日田)で猿田彦が待ち受け、葦原の中つ国に天孫降臨していったのではないかと想像する。



「天照大神の生まれた日向は宮崎でない」

 『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。

 神話の日向は三つあって、

①天照大神と素戔嗚尊と月読尊が生まれた「日向」。②天孫降臨地の「日向」③景行天皇が名付けた「日向国」

 この日向を区別しないで混同していると『日本書紀』の嘘に騙されてしまう。①と②には日向であるが③は日向国である。『日本書紀』の天孫降臨は邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。と言い日向国とは記述されていないのである。

『海神宮 訪問神話の研究』宮島正人氏も[日向]という名称がこれほど頻繁に『記紀』に登場するというのに筑紫島の中に正しく[筑紫国]の存在は見えても一方の[日向国]の名称が出てこないのはなんと言っても不自然である。



「抹殺された日子山と九州の蘇我王朝」

日本書紀が720年に編纂され、勝者藤原氏の時代がやってくる。その時に敗者、蘇我氏を消し去り、819年に日子山を彦山と改称させられ、蘇我氏の祖である武内宿禰は景行天皇伝承にすり替えられた。日子山の意味をもう一度検証する必要があり、そこに檀君神話と日田の藤原恒雄(鷹)伝承が大きく関わっているのではないか。

 

 あくまでも神話と伝承で古代史の謎を解く事は不可である。しかし『日本書紀』の記述の半分は嘘であり、『古事記』も三割は嘘という。『古事記』は出雲神話を大きく拡大して記述している。そいう裏からの視点も必要ではないだろうか。

 また伝承として、葛城直は「九州日田の豪族として、神武天皇の東征に従う」(『姓氏家系大辞典』)また、代成務天皇の御世に 、葛城国造と同祖、止波宿禰を日田国造り定めたなどの蘇我氏と同族の葛城氏と日田の関係。また久津媛神社の末社に鴨神社の存在といい、武内宿禰(景行天皇)を祖とする蘇我氏と日田のつながり。そして英彦山神として祭られる藤原恒雄の本当の姿は天忍穂耳命で、大和岩雄氏の「藤原恒雄は日本人化していたがそれが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命となった」という意味がどれだけ大きな意味かが伺える。

 英彦山=檀君神話=天の日矛=都怒我阿羅斯等=素戔嗚尊=天忍穂耳命=武内宿禰=景行天皇=浦島太郎(『日本書紀』の浦嶋子)=藤原恒雄という新羅から倭国を歩き渡たり日本という国の生い立ちを築きあげて行った人々なのである。
 天孫降臨神話には日本創世の秘密が隠されているのである

  英彦山を創建した藤原恒雄は武内宿禰(天の日矛)?

  日田の湖水伝承(日と鷹の神話)を調べていたら、鷹伝承そして英彦山へとつながって行く。そこで藤原恒雄伝承を知り、その恒雄が日田の人物で檀君神話、英彦山神という想像も出来ない世界が待ち受けていた。

 どうして英彦山神を豊前と筑豊の人々は恒雄という人物を奉ってきたのだろう。日田には大きな権力基盤はないかもしれない。私はこれまで、3世紀の邪馬台国時代と「筑紫の君・磐井」ばかり追い続けていた(私は日田は第2期邪馬台国の女王の宗女(卑弥呼の後継者)でる台与(久津媛)の都と思う。初期邪馬台国(夏羽伝承)は筑豊?)。

 恒雄伝承を調べながら行き着いたのは、この恒雄の檀君神話こそが、3世紀~6世紀までの九州の謎を解く秘密であった事に気づきこの文章にしたのです。

 英彦山は、比較的新しい歴史だと言われるが、縄文遺跡もあり、本当は相当古い歴史が実在しているのに、消し去られているとしか思えない。英彦山の高住神社(恒雄を祭神)の宮司も、ある時期を境に歴史が消えてしまい何も残っていないという話を私は聞いている。『日本書紀』の応神記にも英彦山で輝く水晶の記述もある。

 日田には、古代卑弥呼の時代から磐井までの時代の新羅から舞い降りた奥津城(聖地)であった。それが会所山と竜体山という風水であった。



「英彦山と檀君神話の謎」



 今は「英彦山」であるが、日子山→彦山→英彦山へと表記が変わっている。英彦山は北岳・中岳・南岳(主峰:標高1200メートル)の3峰からなり、日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。

 英彦山、中央の中岳の山頂から山腹にかけて上津宮・中津宮・下津宮があり、その下に奉幣殿がある。また英彦山全域に摂末社が点在する。また大分県日田市との境にある釈迦岳(1,231m)に次いで2番目に標高が高い。山域は福岡県と大分県の県境未確定地域となっている。

 『鎮西彦山縁起』によると、継体天皇二十五年(531)に北魏の渡来僧・が始めて英彦山に入ったという。岩屋に籠もって修行中に、猟師藤原恒雄と出会う。恒雄は善正の弟子となり忍辱(檀君神話にはヨモギとニンニクの話が登場する)と改名し、ついには山頂に阿弥陀、釈迦、観音の本地仏を見る。つまり、英彦山の開祖は善正、第二世が忍辱とされている。当時、北魏は仏教のほか、道教が隆盛しており、日本海ルートを通じて北九州でもそれらが新しい思想潮流として受容されていたことは間違いない。(ただし『彦山流記』(彦山の最古記録書・鎌倉)には善正は全く登場しなく「藤原恒雄云々」と書かれている。

 また、恒雄の名も朝鮮の檀君神話の桓雄に由来するのではないかという指摘もある。※中野幡能氏は『英彦山と九州の修験道』で桓雄は人間界を救うために太伯山に降臨した神人で、檀君は桓雄と熊の間に生まれた朝鮮民族の始祖とされる。中野氏は、桓雄という民族の救済心としての古俗の名残が藤原恒雄であると見る

 

 檀君神話とは、十三世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王である。『三国遺事』は、高僧一然によって書かれた文献で、朝鮮半島では、『三国史記』(1145)に次ぐ古い文献である。天神、桓因の子、桓雄と熊との間に生まれたと伝えられ『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん・ワングム)という。

 桓因の庶子である桓雄は、下界に興味を持ったので、桓因は桓雄に下界を治めるよう命じ、桓雄は太伯山(三國遺事の注釈では妙香山のことであると明記されているが、白頭山とする説も散見される)の神檀樹に部下3,000人と共に天下って「神市」という国を築いた。桓雄はある熊の願いをかなえて女にし、この熊女(ゆうじょ、ウンニョ)との間に子をもうけた。これが檀君王倹(檀君)であり、朝鮮最初の国家である檀君朝鮮を築いた人物であるとされる。

 
英彦山の神、日田の藤原恒雄(別名:藤山恒雄)の謎」

  藤原恒雄は、伝説上の人物とされ、日田市史などの公共的な文献にはいっさい登場しない伝説上の人物である。しかし、日田史参考資料十五巻「英彦山高住神社」資料にはこの藤原恒雄伝承が濃厚に記述されている。別名として藤山恒雄と書かれている場合もある。この資料は大宰管内志中巻、善鳴録、豊西記古後本、日田郡史、豊西説話巻三、豊後国志、から抜粋されたものだ。

 英彦山の高住神社の由来は、高住社伝によると御祭神は豊前豊後の国の守り神として、もと鷹巣山に祀られ、人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられている。また農作と深く関わる信仰から、農耕牛馬の守り神として牛馬安全の信仰がうまれ、その信仰は“豊前坊さま”として豊前豊後はもとより筑前・筑後へも伝わり、信仰の名残が小社や石碑として各地に点在している。

 藤原恒雄の伝承の物語を紹介する。彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師である。普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもり、時期が来るのを待った。531年のことである(磐井の乱527年)。

 このころ、豊後国日田郡に藤原恒雄という者がいて、弓射がうまくよく猟をしていた。獣を追って山に入ったときに、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、何でそういうことをしているのかと聞くが言葉が通じない。善正も恒雄に殺生の罪を話すが通じないので、恒雄は猟を続けていた。

 そのうち恒雄は善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばにカヤぶきの小屋を作って住むようになった。それ以後、二人は親しくなり言葉も少しは通ずるようになった。宣化天皇の三年のある日、恒雄は猟に出て一匹の白シカを見つけ、それが瑞獣であることを知らずに弓で射た。シカはその場に倒れたが、そのときどこからか三羽の鷹が飛来し、一羽がくちばしで矢をくわえて引き抜き、一羽が羽をひろげて傷口をなでて血をぬぐい、残りの一羽はヒノキの葉を水にひたしてシカにふくませた。すると、シカは生き返りたちまちに姿を消してしまった。

 恒雄はそれを見て、神の仕業とさとり、大いに恥じいって、弓矢を捨て、家財をなげうって祠を建て、善正が抱いて来た異国の神像(仏様=我が国ではまだ仏陀を知らない。)を安置して祀り霊山と名づけた。みずからは善正の弟子となり忍辱と名のり、修行にはげんだ。これが我が国における僧の始めである。恒雄は更に、シカやタカは仏の本体ではないから、ぜひ仏様に会いたいと祈ると、北岳に現身(法体)を現して「我はもと阿弥陀如来であり、神となって現れた」といい、南岳には俗形で釈迦如来、中岳には女容で観世音菩薩があらわれた。それゆえ三岳の山頂に神祠を建てて祀り、繰返し祭りをおこなったので、神々の霊応ますます顕著であった。

 造領記には、藤原恒雄の事を記述している内容が、驚きである。「橘豊日天皇(用明天皇・587年)の二年に天皇不豫群(病気)になり、内裏(天皇が住む)に入ったのが豊国法師こと藤原恒雄と記述し蘇我馬子が賛成して呼んだもの」と言われている。

 しかし、この事で、物部守屋が反対し、相戦し騒がしくなり、彦山に帰り霊山時に寂しく後の人になり、恒雄が家は藤山にありしと伝えている。

 豊国法師の彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。豊国奇巫といえば、明らかに朝鮮半島系のシャーマンであり、その後身である豊国法師も、おそらくシャーマニズム的な奉仕だったのだろうと中沢 新一(日本の宗教人類学者)氏は述べる。豊国法師には験力があったのだ。

 中沢氏は、柳田國男氏(日本の民俗学者)の巫女研究の跡をたどりながら、「修験道の原初をあきらかにしていくためには、どうしても東九州から朝鮮半島の南部までをひとつに包み込んだ大きな圏域のことを考えにいれなければならないという認識に、たどり着くことになる」と述べる。



 このような発生をした修験道の開祖は、七世紀から八世紀にかけて活躍した役小角(えんのおずの)であるとされている。一般には「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれる彼は不思議な霊力を持っていたようで、山中にあって鬼神を自由自在に使役していたとか、超能力で空中を飛行したといった類の伝説が多く残っている。彼の正体は山岳修行者であることは明らかで、吉野の金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)やその他の山々を開いた。だが、土着の山岳修行者との間に軋轢が生じ、彼らによって伊豆の大島に流刑されたのである。



 余談になるが、日田の大蔵氏も彦山に7年滞在し、戸山に出てきた。紀伊から来たといわれる諸説もあるが、宇佐から来たというのが大方の説だ。しかし国語辞書で「鬼」を調べると、日本には京都八瀬と日田に鬼の家系が残ると書いている。詳細は書かないが、秦氏(豊前地方)との関連も予想される。そして中国の『隋書』(656年) には、この秦王国や阿蘇、邪馬台国の記述もみられ「秦王国は筑紫の東に秦王国あり、また10余国へて海岸に達する」という。10余国へて海岸に達する秦王国の都は少なくとも海岸でなく、飯塚か日田もその範囲にあてはまるのではないか。

 

「鷹伝承と天照大神の皇子を祭神する英彦山と香春岳の秘密」


 
豊西記、豊後国志、矢野家伝(日田の矢野家に伝わる文書で、湖水伝承、大山、前津江などの記述がある。この文書には、安土桃山時代からの記録や太閤地検の内容は県下唯一であり、また、絵図には月隈山の天守閣が画かれ一家の伝承に過ぎないがもっと重要視されるべきである)には、日田が湖であり、西から飛んできた鷹が湖(日田盆地)を決壊させ日隈や月隈や星隈が現れたという伝承である。『豊後国誌』には、日田は日鷹と呼ばれ鷹が日田を創世してその鷹が次に鷹羽郡(田川)に飛び去って行ったという記述が残される。

 田川と言えば、古代史的に代表されるるのが、香春岳で新羅の神が舞い降りたという伝承が残る地域であり、早く言えば秦氏そのものにつながる。ただ、秦氏との年代との誤差はあるが、現人神神社(香春岳近く)には、都怒我阿羅斯等という新羅(伽耶)の神が舞い降りた伝承が残り、また鏡山にも濃厚な仲哀天皇や神功皇后も残る。香春岳からは銅・鉄・金が採れる重要性がある。ちなみに奈良の大仏もこの香春の銅が使われている。

 また香春神社の祭神は 辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命であり、英彦山神社の祭神も香春と同じ「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命=忍骨命」である。これは私見であるが、天照大神の子ども「忍骨命」であるから日子=太陽神の子どもではないかと想像する。余談だが2代天皇から9代まで別名で「日子」の名が付くのも関連があると思われる。

 また大和岩雄氏は英彦山神と香春神と恒雄の共通性を紐解く。以下参照。

 「この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話にある。朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが (但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命(天照大神の子ども=あめのおしほみみ)となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである」という大胆な仮説を著書で書き示している。 (※大和岩雄氏は鷹=秦氏=鍛冶=農耕=都怒我阿羅斯等という考え方)



英彦山は筑紫の日向(ひこ)で天の香具山

 『記紀』神話に登場する天照大神・素戔嗚尊・月読尊が生まれた「筑紫の日向」という地名であるが、一般的には宮崎の日向(ひゅうが)と言われるが、私はそう思わない。少なくとも、日向(ひゅうが)は景行天皇が九州を回るときに、ここは日がよくあたるから日向と名付けようと言っている。

 であるなら、それ以前に筑紫に日向(ひむか・ひなた・ひこ)が存在しているのであって、少なくともこの日向は北部九州が妥当だと私は思う。豊前風土記にも豊前風土記にいわく 京處郡(京都郡) いにしえ 天孫(あめみま)ここより發(発つ)ちて、日向の舊(旧)都に天降りましき。けだし、天照大神の神京(帰る)なり。云々と記述される。

 特に、朝鮮半島では、高い山から下流域に広がる軍事的な戦術があり、九州に入り、英彦山に先に入って来た可能性も十分ある。また『彦山伝承』にも徐福が筑紫から彦山にやって来て、不老不死の薬(千年杉・檜?)を隠したという記述も書かれている。

 本来の話に戻そう。

辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のことだったが、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早く、この「香春」という重大な意味が見えてくる。

 神社伝承で豊前の一の宮は宇佐でなく香春という記述も残るくらいである。『記紀』神話には天の香具山という山が登場するのだが、神話では、銅や鉄が採れるとあるのに奈良の香具山からは何も存在しない。そこで本当の香具山は香春岳という説も根強く、筑豊では今、この伝承を重要視して公的団体(財団・西日本新聞など)市町村単位で多くの講演会活動を行っている。

 面白い内容がある。『日本書紀』では八咫の鏡を造るときに天の香具山の銅を取りてとあるが『古事記』では、天の香具山の真金(鉄)を取りて八咫の鏡を造ったと記述していいる。そこで江戸時代の国学者、飯田武郷と平田篤胤は八咫の鏡は「鉄鏡」だと江戸時代に仮説している。日田出土「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」とも関連していると私見では思う。

 筑豊の神社を回っていると、饒速日命や豊姫や宗像三神や素戔嗚尊の神社が多く、神社も南向きが多いのに気づく(北を向いて拝む)ように、新羅との関連が多いと思う。

 『記紀』神話の天の日矛伝承、都怒我阿羅斯等は、新羅の王子が女性を追ってやってきたという伝承を伝えている。また、歴史作家、関裕二氏もこの神が九州へ進軍して行ったとし『記紀』神話の仲哀天皇と神功皇后にかぶさってくるという。



丹後からやってきた新羅の神? 九州の歴史を消しに来た人々たち

 『日本書紀』に登場する丹後半島の日下部の首である、浦の嶋子が登場するが、この浦嶋子こそが浦島太郎である。浦島太郎は『日本書紀』に登場する人物だったのだ。また関裕二氏は、この浦島太郎こそが、天の日矛(都怒我阿羅斯等)・武内宿禰・素戔嗚尊という。浦島太郎も武内宿禰も300年生き、伝承する人物像も非常に似通っている。

 この集団が筑豊に入って来た可能性は先ほども記述した、都怒我阿羅斯等伝承や新羅の神が舞い降りたとする『豊前国風土記』にも通じる部分だ。

 大分の姫島に伝わる比売語曽も、『記紀』神話では、新羅から丹後へやって来た比売語曽を追って天の日矛が丹後に来たのも、この九州への派遣(進軍)を意味している。

 一説でも、比売語曽は神功皇后のモデルであった説や神功皇后の母など、住吉神社(大阪)とも深く関わりそうな神である。

 これを証明するのが日田の小迫辻原遺跡である。日田市内でも唯一と言っていい布留式土器が出土する。布留式土器とはわかりやすく言えばヤマト(畿内)の土器である。

 そしてこの遺跡は奈良の纒向遺跡とほぼ同時期に発達していった遺跡で、この時期から鉄が九州からヤマトへと移動が始まり、九州の伊都や吉野ヶ里を含めた遺跡が衰える時期にあたるのだ。そして小迫辻原遺跡が輝き始める。ようするに卑弥呼から台与の時代に反応するのが小迫辻原遺跡であるのだ。

 豊臣と徳川が九州を統治するにあたり、日田に楔を打ち込んだ理由が邪馬台国の時代にも歴史は繰り返されていたという簡単な意味がみえてくるだろう。

 九州の神社に残された、武内宿禰は、武雄神社や高良大社を始め、日田の高良玉垂神社も含め、また『記紀』神話の宇美での伝承となる仲哀天皇、神功皇后との伝承も含めて九州に濃厚なものが残されている。

 武内宿禰=天の日矛=都怒我阿羅斯等という伝承、そして九州王朝最後の人物とされる磐井までにかけて檀君神話と新羅系とが色濃く残される「藤原恒雄」という英彦山伝承にして後世に残したのではないかと私は思う。

新羅に関して 西谷正氏は『古代朝鮮の考古と歴史』で、」豊前の香春神社の祭神が新羅の神であることは『豊前国風土記』などの記録からうかがえる・つまり新羅からの渡来人が・豊前の各地に住みつき」と断言している。



 蘇我氏から藤原氏に権力が移り変わるときに、九州でも磐井が敗北し畿内でも蘇我氏も敗者となり、藤原の時代がやってくる。九州も新羅から百済へと変わる時にこの時代的反応を示しているのかもしれない。

 この英彦山に恒雄伝承と共に仏教が公伝より先にやってきている伝承も見逃せないと私は思う。仏教も新羅仏教と百済仏教に分けられ、時代的権力にも通じる部分である。



 最後に、英彦山は『記紀』神話の天孫降臨の場所(添田町の学芸員も同じ考えだった)で、その流れを日田と筑豊と豊前の本当の古代史(蘇我氏・秦氏)を消し去った人物こそが『日本書紀』を編纂した藤原不比等ではなかったか。恒雄にその藤原という冠をむりやりこじつけて、伝承として残された。それが本当の歴史かもしれない。



 丹後半島から舞い降りた都怒我阿羅斯等=武内宿禰(新羅から渡ってきた神)が英彦山を創建しその新羅の権力が磐井まで続き、恒雄という檀君神話に残された。その伝承が「鷹伝承」・「藤原恒雄」となり言い伝えられた。

 下書きに過ぎないがもっと調べると古代九州王朝の匂いと謎が見えてくるのかもしれない。この私の話は馬鹿げているのだろうか。恒雄という人物。日本の歴史の闇に消されたとんでもない檀君伝承であり、『記紀』神話が何故九州で天照大神・素戔嗚尊・月読尊を誕生させたのかという謎も秘めているのであって、今回は割愛するが新羅と出雲神が一体化している謎も解けてくる。筑豊の古代史活動されているメンバーが神話のルーツは筑豊にありというのも私は理解出る。その謎が日田の恒雄だった・・・・・凄いじゃないか。

 恒雄のルーツは武内宿禰で都怒我阿羅斯等(天の日矛)で素戔嗚尊であった。新羅の4代の王は倭国(タナバ国)から来た倭人(日本人)だったのも見逃せない。

 桑野洋輔師匠に、あちらこちらに連れて行ってもらい、その先で多くの発見や人とのつながりの大切さを教えて頂きました。ここで感謝を再度申しあげます。



※中野幡能(なかのはたよし)

 宇佐市出身で東京大学文学部宗教史学科卒その後、別府大学講師、久留米大学院講師
 文学博士。「名前は歴史より長く生きる、これらの名前も韓国の檀君神話と英彦山の恒雄(かんゆう)信仰 は遠い昔に私たちの知らない日本と韓国の関係があった」

『豊後国風土記』と伝承文献から日田を考える

2019/3/28 日田考古学同好会会報誌で紹介された文章です

           「はじめに」

 日田の関係する文献は多くあります。その中でも『豊後国風土記』にスポットを当てながら、その他の伝承も考えながら、語りたいと思います。

 『日本書紀』は勝者(藤原氏)の歴史で敗者(蘇我氏)は抹殺されているとも言われます。また、『記紀』神話よりも風土記は正確性が高いとも評価されています。

 聖徳太子が教科書から消えるご時世に、大きなうねりが起きているのも事実。昨年亡くなられた梅原猛先生は、『隠された十字架』で法隆寺は聖徳太子の怨念を鎮魂する目的で建てられたとし、祟りの条件として、「無罪にして殺された」「無罪で殺されたものが祟りによって時の支配者を苦しめる」「時の権力者は自己の政権の安泰の為に祟りの霊を手厚く葬る」「祟りが神の徳を称える為に良き名をその霊に追贈る」という。聖徳太子こそ、その象徴だと言う。

 これは、あくまでも一説ですが、この日本は「祟り」の文化といっても過言ではない。大宰府の菅原道真もそうだと思うし、八幡神も祟り神なのです。奈良の三輪山も太田田根子という大物主神の祟りを伝える。

 この日田の歴史にも勝者と敗者がいて、その時代背景を文献は伝えようとしていたのではないでしょうか。あくまでも伝承だとしても、英彦山や日下部伝承にしても、なんらかの背景があったと思います。

 文献がなければ、ただの遺跡でも、そこに文献があえば、整合性もでてくるのである。日下部伝承とガランドヤ古墳や穴観音古墳もそう。鳥羽塚古墳と鳥羽宿禰も考古学と文献がつながっている?からである。

 

 

          「景行天皇の物語り」

 

 『豊後国風土記』は、713年の朝廷の命令に応じて、当時の豊後の役人が書いたものです。風土記の始めに、日田には、5つの郷があり駅は一つだと書く。続いて景行天皇の記述が始まる。

 『日本書紀』には、景行天皇の日田巡幸の記述はない。浮羽より日向へと動き大和へと帰ると書かれる。詳細は、豊前から今の宮崎、鹿児島、熊本と移動し八女へ。そして次が「浮羽~日向~大和」への動きとなります。いきなり浮羽から飛行機に乗ったかのような宮崎への移動劇も凄いのだけど、『続日本紀』には、日田を「日向」と書く(一般的には書き間違いだとされる)。また、「新編相模国風土記稿」には、日向は日田の転じたものと記述される。深入りはここまで。

    

            「石井郷」

 

 続いて次に石井郷が書かれる。昔、土蜘蛛がいた。そして石を用いないで、土で築きている。これによりて「無石」だから後の人は石井と呼ぶようになったという。

 ちなみに、6世紀の磐井の乱で有名な「筑紫の君・磐井」ですが、『古事記』では「石井」と書くのです。磐井は、物部麁鹿火との戦いで「豊国」の山奥に逃げ落ちたというので、石井を経由して動いたのかもしれない。

 また、田島の地名の由来に『豊西記』に、「石井源太夫高明公」、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開きという記述が残る。余談だが、成務天皇の頃、鳥羽の宿禰(会所山中腹に鳥羽塚がります)の記述があり、一般的には、同一視されているが私見は違うと思う。ちなみに、日田の神社をまとめた日田市老人会の記載でもこの二人は違うと書く(成務天皇の父が景行天皇)。「石井源太夫高明公」は磐井かもしれない?。

 

 続いて、石井郷の中に川があって、阿蘇川という。その源は阿蘇から小国より流れている。そして玖珠川と合流する。合流した川が日田川となり、鮎が多く、筑紫へと流れ海に入ると書く。

 ただ、腑に落ちないのが、石井郷の拠点が今の石井なのか。風土記でも駅は一つだし、今の石井ならば、花月川と合流するとの記述があってもよさそうなのにと思う。地政学的に考えると、石井郷の拠点は今の高瀬という誠和町付近ではなかったかと思う。「鏡坂」も本当はここらかもしれないし、駅は一つとあるので、ここらの可能性は高いと思う。姫塚という円墳もある。

 

 

 次に書かれるのが、景行天皇。この国の形はまるで鏡の様だ。その場所の地名が「鏡坂」になったという。ただ、高瀬の地名の由来が書かれていないのだが、景行天皇は「鷹」だと私見では考えているので、この高瀬と景行天皇を考えると「鷹瀬」になる。ちなみに三隈川を渡って三芳へと動く先が日鷹(日高)なのも共通点がある。『豊西記』や『豊後国志』に記述される「鷹」伝承だと思う。また、明治に書かれた会所山神社伝承に、鬼塚と思われる場所で景行天皇が禊をしたという伝承もつながっている。

 ちなみに『豊後国志』には、日田を創世した「鷹」が田川へと飛び去った記述が残る。田川の昔は「鷹羽」という地名だった。その田川の神社には「都怒我阿羅斯等」という新羅の神がヤマトより、舞い降りた伝承が残る。西谷正氏も、その新羅の神が舞い降りた伝承(豊前風土記)を本で紹介している。

 

          「靭編と日下部伝承」

 

次には、日下部氏が登場してくる。もちろん、刃連町の由来である。

靭負村(ゆぎおひのむら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。(靭部とは部族で靭を作る靭編部,これを背負って戦う兵士を靭負部といった.従って靭部とはこれらの部族集団と思われる)という。欽明天皇の頃だから550年前後です。(※英彦山を創建した日田の藤原恒雄が531年・磐井の乱が527年で6世紀編半の日田の朝日天神山古墳(三輪玉)とも重なる)

 

次に書かれているのが、五馬媛の存在。今の五馬の地名の起こりである。簡単に紹介されているだけだが、五馬媛関係の神社である、玉来神社と元宮(五馬媛の墓があります)に共通されているのが景行天皇が合祀しされている事だろう。

 次には、筑紫地震が起きて天瀬温泉のルーツとなるもので、温泉が湧いたという記述が書かれている。

 

         「文献の意味するものは」

 

 『豊後国風土記』には、石井郷と靭編郷の記述しかなく、五馬はどうも靭編郷に書かれている。そして、何故、他の三郷の記述はなく、想像では、在田郷と日理郷と夜開郷だろう。

 そして一番不可解なのが、『日本書紀』に書かれていない日田の景行天皇を何故、『豊後国風土記』は書いたのか。文献の景行天皇は、実在性は薄いとされる。亡くなられたが有名な考古学者の森浩一氏は「いつしか考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが、“科学的”だという逃避的な現象をも起こさせている」という。そして天皇が神となった反動での戦後レジームで大きな変化をみせているのも事実。

 私は、考古学と文献からと地政学を組み合わせる事によって、歴史の謎を解きたいと思っている。『日田郡史』には、「役行者が、2人の童鬼を連れて英彦山に来て修行し、そして「鷹」が飛来して日田郡外山に止まる(英彦山)。彦山地域を飛鷹郡、又は、日鷹郡と言いこの童鬼の末裔は大蔵氏を名乗りて」と書く。大蔵氏が鬼なのも察しがつく。大蔵氏は宇佐や和歌山との説がある中、英彦山という縁を日田の公的な公文書に書いているのも面白い。

 余談ですが、自由な発想こそが必要ではないか。飯塚が高島忠平氏を担ぎ「筑豊の邪馬台国」を始めて3年目に入る。ほとんどは寄付や年会費で年間予算600万だそうだ(補助金は5%程度)。運営費は企業寄付や会費によっての事業運営(この主催者は日田でいうパトリアの指定管理者で理事長が日田出身の方で日田とも交流している)。

 また、田川市長は、なんと巨大な「電通」を通じて田川邪馬台国説を始めた。それも、『記紀』神話や風土記や神社伝承などを駆使しての動き。炭坑からの脱却としての新たな地方イメージに取り組んでいる。

 沖ノ島と宗像が世界遺産になり、筑豊もその流れに乗りつつある。九州国博の河野氏が、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国宝になる為には、宗像から日田への物語をつくる必要性があると言われたのを覚えている。

 

           「日田の伝承」

 

 高住神社(英彦山の元宮と言われる)を創建した日田の藤原恒雄(藤山恒雄)伝承も、森春樹(江戸時代の日田の先哲)は、藤原恒雄を豊国法師(蘇我馬子から呼び寄せられた)だと言い「大化の改新で敗者となり日田に帰り、虚しく余生を藤山で過ごしたと書く」。

 また、『豊後国志』(森春樹が伝える)が伝える、西から飛んできた鷹が日田を創世し、鷹羽(田川)へと飛び去って行ったという伝承は、ある意味、日田の次に日子山(英彦山)で次に筑豊で、次に宗像と沖ノ島だとも考えられる伝承。

 英彦山伝承では、宇佐から宗像三神が英彦山へやって来て、次に宗像に舞い降りた伝承も証明している。

 そして、『古事記』の、天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギの命)と天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(フキアエズの命)の「日高日子」は「ひこひこ」と呼ぶ。日高と日子は同じ意味をなしている。(日子山(英彦山)と日田という日高が同じ呼び名)

 

 『日本書紀』では、景行天皇は浮羽から日向そして大和へ帰る。『日本書紀』の天照大神が生まれた「筑紫日向」や天孫降臨の「筑紫日向」と書く。反面、神武東征と景行天皇の『日本書紀』の宮崎は「日向国」と書く。しかし、景行天皇の順路では何故か浮羽から次に移動した先は、「日向」であって「日向国」ではないのです。

『豊後国風土記』に 景行天皇が記述されている意義は大きい。浮羽から日向(ひこ)へ向かったのではないか。

 これも余談だが、筑紫と竺紫の使い分けの詳細は触れないが、『古事記』に磐井を「竺紫君石井」と書き、「筑紫嶋の筑紫国」と「竺紫の石井の」使い分けをしている。

 

 日田に関係する文献資料の中で、私見としての歴史の景行天皇(鬼・鷹)と藤原恒雄に『豊後国風土記』や『日田史参考資料』を通してスポットをあててみたいと思う。別府大学の下村教授が古代日田と筑豊の考古学的なつながりを言った事が、「鷹」伝承とつながっているのです。

 

 東国(江戸・大和)による王権という権力者の影響で日田の豪族(鳥羽宿禰・日下部石井源大夫・中井王・大蔵など)も入れ替わり、豊臣も徳川もそうであるように、九州の日田に楔を打ち込む歴史は、邪馬台国(小迫辻原遺跡・布留式土器(畿内・山陰・東海の土器が持ち込まれている))から明治維新(松方)まで永遠と歴史は繰り返していたのです。

 (※本居宣長の邪馬台国説から、本当の邪馬台国は畿内だが、九州の偽卑弥呼(邪馬台国)が魏に朝貢したという邪馬台国偽僭説は、考古学(赤塚古墳・小迫辻原遺跡)と『記紀』神話(仲哀・神功皇后)が一致する。九州偽邪馬台国は畿内本当の邪馬台国から滅ぼされた?)

 

 

 終わりに、先人の残した文献を否定しまっても意味がない。敗者の歴史を伝えるのも文献なのです。『記紀』神話』『旧事紀』『和名類聚抄』『東鑑』『大宰管内志』『豊後国風土記』『英彦山流記』(※中野幡能氏は、英彦山修験道の起源については中国から来た善正が開山しているが、「彦山流記」(彦山の最古の書物)は善正の事はいっさいふれていない。つまり恒雄が彦山修験道を開いた。『彦山伝承の謎』添田町役場出版より抜粋)『鎮西彦山縁起』『日田史参考資料』『日田郡誌』『矢野家伝』『豊西記』「森春樹」をもっと総合的に研究をしていくべきだと思う。2世紀から8世紀の歴史の敗者の日田と筑豊の古代の歴史がこれから輝くようになるだろう。

 添田町役場の英彦山を研究されている職員の方が、『記紀』神話の「高天原」は英彦山という。まさにその通りで「鷹天原」なのかもしれない。

 英彦山の神紋は「鷹」で、英彦山周辺にある多くの高木神社も高皇産霊神で、高は鷹の意味が含まれている。英彦山の鷹巣山に高住神社があるのも「鷹が住む神社」なのかもしれない。英彦山は本来、日子山で天照大御神の長男を祭神するから日子なのです。そいう先人が後世の為に地名や文献として残したメッセージを私たちは大切にしないければならい。千五百年の時を超えてソフトバンクホークスという鷹が九州で蘇ったように。そろそろ英彦山を創建したのが何故、日田の人物で「鷹」だったのか、筑豊と一緒に問う時代になってきた様だ

「気」から読み解く邪馬台国の秘密 日田=日月=日鷹=日高見=卑弥呼と神武天皇の祭祀場・黄泉
日田の「田」には、鷹・月・御食(三毛)という神武から秦氏までの暗号ではないか?
天照大御神・須佐之男・月読尊は、「日月星辰」の意味になり、日田そのもが、宇宙であり海中なのである。




大原神社の扁額です。「「鷹飛月窟地・魚躍海仲天」と書かれている。書道家・井上悦文氏
この内容は、月の場に、鷹が飛び、海中の魚が波を立てて踊る そんな感じを受け取ります
日田は陸上の竜宮的意味です
大原は大波羅で、波という大海原も意味しているようです。
神話は三毛野命は波頭を
踏んで常世に行ったという。この常世こそ、月という田という日田
三毛野命は、神武天皇であり、この日田に眠る神である。
阿蘇の大宮司が語る意味は深い。



邪馬台国論争は、多くの諸説があり、考古学的には、畿内だという。

文献から読み解く、邪馬台国も、諸説あり。

邪馬台国ばかり論議されるけど、紀元前2世紀頃から2世紀くらいまでの日本史はあまりかたられないけど、邪馬台国のルーツもここに潜む?

DNA的に、九州と関東以北は、同じで、畿内がちょっと違う。紀元前の日高見王国が存在し、倭国大乱で、分裂したのではないか。銅鐸にせよ、九州からヤマトに持ち込まれ、拡大していった。前方後方墳ももしかしたら、九州にあった祟りの古墳をヤマトは引き継いだ可能性も否定できない。
ヤマトのアリキの日本創世に、楔をうちこみたいと思う。

日本の原始太陽信仰は、弥生時代に、この九州から始まり、日高見として拡大していった。渡来系の人々により。ペルシャや中国、朝鮮半島からの移住者とともに。


私は、「気」から読み解く邪馬台国を悟るようになった。

「気」という地勢や風水的なもの
「鬼」という鬼。鬼は角という意味も含まれる。都農(つの)神社の大己貴命もそうであろう。
「岐」という枝的。枝には角という鬼も含まれる。猿田毘古も八衢という「岐」です。

私は、少なからず、卑弥呼的祭事を行う場所は、海岸ではなく、大きな川と地龍が巡る盆地的な場所だと思う。

地勢的な、意味で言うと、中国や朝鮮半島でも、海岸には王権はない。国の端には王権の都はない。中心的な位置に置くのが原則です(地政学的)。

ただ、経済的や交易に関しては、海岸線で、安曇などの勢力は必要だが、それを指示する権力者とは、異なると思う。


日田は、徳川や豊臣が、直轄地として、治めた地勢的理由がここにある。

そして、日田には、日本最古の豪族居館跡(3世紀中頃)や『豊後国風土記』の久津媛、そして卑弥呼の鏡と騒がれるようになった、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の存在がある。もちろん、英彦山神というものの起こりがこの日田にある。

私見だが、日田は太陽と月の都で地上の竜宮城だと思っている。そこには、卑弥呼や神武天皇が密接に絡んでいる黄泉の国という死者の世界だ。ヤマトに祟りを起こす、出雲の怖い神々が存在している。

藤原恒雄(豊国法師?タリシヒコ?)は神武天皇的な、御食で三毛入野命に通じる?

月という鷹という八咫烏そして「田」そして「女神」を意味する。「月」と「田」は同じ意味であり、聖なる意味を持つ文字だと思う。 日田とは男女そして太陽と月そして卑弥呼と神武天皇の祭祀場である。

前方後方墳の形状のルーツがここにあった。左図。

1~2世紀の頃の古墳かもしれない。ここにヤマトが怯える本当の神が「眠っている」から、祟りを恐れたヤマトはこの形状の古墳祭祀を日本中に広めた。


日田三隈の山々は彦星と織姫という伊邪那岐と伊邪那美の世界。そして天照大御神と須佐之男と月読を意味する日月星辰の都です



 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を国宝に!

2021年元日放送のNHKBS「邪馬台国サミット」で放送された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

中国の曹操の墓から出土した「鉄鏡」と日田の「鉄鏡」が酷似している。
曹操の墓の発掘の担当者の中国の考古学者のハン氏が認めた日田の鉄鏡です。




金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡・曹操の鏡・八咫の鏡?


   
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(九州国立博物館蔵) 完全復元品(天領日田資料館蔵
   
     本物からのデジタル復元          復元品からのデジタル復元
 日田から出発した神武天皇と応神天皇

歴史作家 関裕二氏 



ポプラ社・沈黙する女王の鏡 関裕二氏(日田を題材に)
ワニ文庫・天皇家はなぜ続いたのか 梅澤恵美子氏(日田の祟り)

※九州国立博物館の河野一隆氏と関裕二氏は
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が奴国より持ち込まれたと仮説しています。以下参照
関裕二氏の仮説     河野一隆氏の仮説


日田から出発した神武天皇と応神天皇 沈黙する女王の鏡より
  日田が邪馬台国?って本当?

日田古代史の謎

①古代の王権の都は、大河の上流部の盆地的な場所に多い
②日田の地形は、地理風水でいう理想郷に日田は酷似している。
③日田は、北部九州の中心地で八方(八衢・八又)に道が伸びる要所である。
④豊臣・徳川が九州で唯一の天領地(直轄地)として九州に睨みをきかせていた地勢的要所。
⑤朝鮮半島、畿内勢力と敵対していたら、九州勢力の安全で指揮系統ができる地勢的要所。
⑥『魏志』倭人伝の、不弥国が飯塚であれば、その南60k(1万2千里の残り)としたら日田が有力地になる。
⑦金銀錯嵌珠龍文鉄鏡という卑弥呼の鏡の出土地
⑧『豊後国風土記』に登場する景行天皇を迎えた神の「久津媛」は、卑弥呼か台与ka?
⑨卑弥呼の時代に吉野ケ里や平塚川添が衰退し、台与の時代に小迫辻原遺跡が登場する。
⑩日本最古の豪族居館跡(祭祀遺跡)は、卑弥呼のシャーマンとしての呪術を意味している。
⑪日田という文字の日は「太陽」を意味し、田は「産み出す」意味がある。卑弥呼を連想させる地名である。
⑫日田はヤマトによって封印された、本当の根の国、黄泉の国、か
⑬邪馬台国は「やまたこく」とよむ。八又(やまた)という八衢。(猿田毘古の八衢の神の意)

 これまで、邪馬台国論争で注目されなかった「日田」。これから邪馬台国(筑後川流域)の、巫女の聖地として注目されていくだろう。日田盆地の中にに、日隈、月隈、星隈という山が、天照大神、月読、須佐之男としての意味を示している。

『豊後国風土記』の久津媛は天照大神か神功皇后か須勢理毘売命か
『豊後国風土記』の久津媛は、神として登場し人に化けて景行天皇を迎えている
久津媛の神は、天照大神で、人は台与か
久津媛は比佐津媛が本来。比=太陽で佐は補佐する意味だから、太陽を補佐する
久津媛は大己貴命(武内宿禰・景行天皇)と女神の一対を意味している。
成務天皇の日田国造りの鳥羽宿禰(葛城直)は、日本武尊だった
『豊後国風土記』の久津媛に会った景行天皇は、なぜ禊してまでも、久津媛会ったのか
久津媛の日は太陽で、朝鮮半島で、さつ、は猿を意味する。猿田毘古と天鈿女を意味

卑弥呼は五馬媛で台与は久津媛?
日は、太陽を意味し、田は、うまれる土地を意味している。=太陽が誕生した土地を意味する

日田は、日本、太陽信仰の誕生地で、天照大神という火明命や豊受大神の土地柄である

卑弥呼から台与の時代の大きな変化

九州が圧倒していた鉄がヤマトへ動き出す
九州が圧倒していた、大型の鏡がヤマトへ動き出す

前方後円墳が九州東岸に入り込む
布留式土器が、日田の日本最古の豪族居館遺跡の小迫辻原遺跡や奴国に張り込む


日田の鳥羽と荒田とは、事代主神主と建御名方神?入根・振根?的な兄弟を意味しているかもしれない



 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の動き
 金銀錯嵌珠龍文鏡
 直径21.1cm、厚さ2.5mmの鉄鏡で、反りはなく平面である。装飾は、腐蝕のために剥落した部分が多いが、約3分の1が残存しており、原状をうかがうことができる。背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。また、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌められている。
 中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられているが、前漢か後漢かについては両論がある。金銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡しか出土していない。

 また、中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。2019年には中国の研究者が、曹操の陵墓(西高穴2号墓)から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式である可能性が高いと発表している。
 
 異説だが、『古事記』には、八咫の鏡は「鉄」(『日本書紀』は銅)から作られたと記述している事から、平田篤胤と飯田武里は、八咫の鏡は、「鉄鏡」だと解く。この事から、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、中国製でなく倭国製では、ないかという説もあり。
※飛騨高山からも1枚の鉄鏡が出土しています。

神話の鉄鏡 『古事記』による、「八咫の鏡」については次のような説がある。

〇『古事記』における鉄鏡
『古事記』は「八咫の鏡」を製作した時の状況を次のように述べ、「八咫の鏡」が鉄鏡であったと記している。
 八百万の神は、天の安の河の河上の天の堅岩を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人の天津麻羅(あまつまら)をたずね求め、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命に命じて、鏡を作らせた。

『古事記』で「天の金山の鉄」とあるものが、文献の編纂される時代とともに下記のように変化している。
「天の金山(かなやま)の鉄(くろがね)」 (711年成立『古事記』)
「天の香山(かぐやま)の金(かね)」 (720年成立『日本書紀』一書)
「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (807年成立『古語拾遺』)
「天の金山(かなやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる『先代旧事本紀』)
「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる『先代旧事本紀』)

 〇内行花文鏡とみる説
原田大六氏の『実在した神話』や、森浩一氏の『日本の神話の考古学』では、「八咫の鏡」は内行花文鏡であるとされる。
 〇三角縁神獣鏡とみる説
出口宗和が『三種の神器の謎』のなかで主張している。
 〇鉄鏡とみる説
飯田武郷,平田篤胤は『日本書紀通釈』で、「八咫の鏡」は鉄鏡であると説く。
 〇八陵鏡や八花鏡とみる説
本居宣長が『古事記伝』のなかで、「八咫の鏡」は円形ではないことを説いている。
 〇柄鏡とみる説
伴信友が『宝鏡秘考』の中で述べたが、柄鏡は中国の宋代から、日本では室町時代から使われたもので、鏡の入れ物の寸法や形状から考えて、まずありえない。


『魏志』倭人伝 『魏志』倭人伝には、鉄鏡の記録はない。

 〇中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌は、『魏志』倭人伝の銅鏡100枚は、総体的での銅鏡であって、100枚の中に含まれる可能性はあるという。※佐賀新聞
 
 〇魏から卑弥呼へ2回目に送られた記述には「鏡」とだけ、の記述であるから、「鉄鏡」の可能性もあり。

 ※邪馬台国時代の魏では、銅が不足していたことから、鉄の鏡が作られていた。

 
出土の経緯  1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で、久大本線の敷設工事のために線路の盛土のための用土を採集している際に出土した石棺の中から発見されたとされる。しかし、この鉄鏡は注目を集めることなく、行方も分からなくなった。

1962年(昭和37年)に京都大学の梅原末治氏が奈良の古物商からこの鉄鏡を買い取り、天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げる。に白木原氏により研ぎあげられ、金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。

 そこで、梅原は、発見者の渡辺音吉氏の案内のもとで現地調査を実施。その結果、日田市日高町の東寺古墳(通称:ダンワラ)と呼ばれる場所から出土したものと判断(国華で発表)され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、出土地点は前述の線路工事によって発見当時に破壊されているが、梅原末治氏の調査をもとに、文化庁は、東寺古墳出土としている。横穴墓から出土したとも言われるが、竪穴式から出土した可能性が強い。

 
鉄鏡関連の歩み

1933年 (昭和8年)久大線の工事中に鉄鏡を渡辺音吉氏が発見
1950年(昭和25年)三芳小学校の廊下に保管 ?
1962年(昭和37年・7月)梅原末治氏が鉄錯研ぎだし練習用に玉林善太郎氏より、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を譲り受ける。
1962年 梅原末治氏が日田訪問(渡辺音吉氏宅)
1962年 1/3ま研ぎだし、梅原末治氏が、白木原和美氏に作業を急がせる。
1963年 梅原末治氏、朝日賞受賞・『国華・853』(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)を発行
1964年 国重要文化財に指定される(10月23日)
1979年(昭和54年)東京国立博物館所有となる

2003年 日田市民会館での古代史講演会・八咫鏡鉄鏡説(講師:安本美典氏)
     主催:久津媛と日田の古代を語る会(後藤英彦実行委員長)
2006年 東京博物館から九州国立博物館へ貸出
2009年(平成21年)九州博物館4周年特別展で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を「卑弥呼の宝飾鏡?」大々的に紹介する
2010年(11月3日) 橿原考古学研究所の講演会で、中国 社会科学院考古研究所所長 王 巍 氏が曹操の墓から鉄鏡が出土
2010年 日田のパトリアで金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の講演会(講師:安本美典氏・刈谷俊介氏・河野一隆氏他)
     主催:日田古代史フォーラム実行委員会(日田古代史研究会・石丸邦夫実行委員長)
2017年 日田の三芳公民館で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の講演会(講師・九州国立博物館河野一隆氏)
     主催:日田歴史発見講座伊藤塾(伊藤利光実行委員長)

2019年(平成31年・9月) 朝日新聞が曹操の墓から出土した鉄鏡と日田の鉄鏡が酷似していると発表
2020年 佐賀新聞記事。中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏から卑弥呼へ送られた鏡だった。
2021年(令和3年) 九州国立博物館で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を常時展示をしている。
2021年 NHKBS元日2時間特番「邪馬台国サミット」で番組最後に10分程度、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が紹介される。
2021年 宇佐市の大分県立博物館で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の展示(貸出)が行われる
2023年 梅原末治直筆の橿原考古学研究所のサインが入った出土調査資料がみつかる。

久津媛と英彦山の相関図






 
前方後円墳形状の土地 380m級の古墳なのか?
  
日本最大の前方後円墳住宅団地!
  
 昭和22年の米軍撮影の画像です。 前方後円墳に見える? 
 
 考古学者の西谷正氏と高島忠平氏にこの画像を直接見ていただいたら「周濠があるね」と言いました。

私見は、建設途中に終わった古墳か。歴史作家関裕二氏が著書で、小迫辻原遺跡が焦土化ししている事から、ヤマトの軍勢に燃やされたという。その時終焉した可能性を秘めている?
           日田の古代史案内

       「日田のパワースポット巡り」案内致します!


日本最古の豪族居館跡、小迫辻原遺跡や吹上遺跡など
日田の地名の起こり、久津媛神社・五馬媛神社
大原神社・高住神社・石井神社など
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のレプリカを所蔵している日田天領資料館(入館料が必要です)

申し込み先:fanpu87@yahoo.co.jp
携帯からお申込みの場合は、必ず電話番号を記入して下さい。
諸費用等、ご負担をお願いする場合があります。ご相談ください。

※宿泊・食事など、される場合は、ご相談頂くとご紹介致します。

日田の鉄鏡は曹操の鏡?朝日新聞社

2019年9月に朝日新聞で紹介されたもの。
曹操の鏡(鉄鏡)と酷似していると話題になった金銀錯嵌珠龍文鉄鏡です。

魏から卑弥呼へ送れた鏡?
佐賀新聞社

>>詳細はコチラ

卑弥呼と台与は日田に?
二人の巫女

『魏志』倭人伝には、卑弥呼と台与が紹介れいます。そして日田には、久津媛と五馬媛の二人がいる。 まるで、卑弥呼と台与のように。
 二人の媛に共通しているのが、景行天皇なのです。『豊後国風土記』には、景行天皇が、浮羽から日田に凱旋したと書かれている。
 会所神社には、三韓征伐で神功皇后が九州各地から軍勢を集めて軍略したという記述まで
も。
 成務天皇の頃、日田の造として鳥羽宿禰の登場があり鳥羽は、葛城の直と書く。
 武内宿禰と神功皇后は、この日田に居住していたのではなかったか。武(鷹)内宿禰とは、須佐之男で都怒我阿羅斯等で「鷹神」という
高(鷹)御産巣日神だった。
 そして神功皇后という台与が久津媛で卑弥呼という五馬媛ではなかったか。
 ちょっと贅沢な思考でした。
 


新着情報News

2020.7.1
ホームページ開設いたしました。
2020
2020
2020
2020
2020
2020
  金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の謎 

 昭和8年に日田で出土された。日本では鉄鏡の出土例は少なく調査、研究もされてこなかった。
 しかし2019年に東京で行われた『三国志』で、この鏡が曹操の墓から出土した鉄鏡と酷似していたと中国の考古学者が発表し、朝日新聞で日本全国で知られるようになる。

 中国の考古学者の話では、この鏡が中国で出土していたら中国の国宝の中でも最高クラスの鏡だと講演会で発表している。

 それでも、日本では注目されない。もし、畿内から出土していたら大騒ぎになっていただろうに。日田出土で悲運の鏡となっている。
 
 古事記には、八咫の鏡は鉄から作られたと記述され、日本最高峰の鏡なのは間違いない。

 考古学者は注目しないでも、少なくても日田市民だけは、盛り上がらなくてはいけないと思う。

 久津媛の鏡で、それも卑弥呼の鏡で八咫の鏡である可能性は排除できない。

考古学の落とし穴が「日田」だったとは。恐るべし。

 
  英彦山は日子山で 
 
 日子という意味は、天照大神の子という意味ではなかったか。そして日子山には、忍穂耳命という天照大御神の長男が祭神されている。
 この山には、大己貴命や宗像三神までもが祀られていて、天孫降臨神話は、この日子山だった可能性があります。

 そして日子山を創建したのが、日田の藤原恒雄という人物で詳しくは左上のリンクで見て欲しい。
 恒雄は、檀君の父である恒雄だという説があり、古代朝鮮半島とのつながりがあり、秦氏や葛城にも通じる。意外や蘇我、葛城は九州だった可能性が日子山は証明しているようにもみえるのです。

 邪馬台国時代も日子山に封じ込められた出雲の神と日向の神が同時に祭神され、出雲と日向は同じであった。
 筑紫の日向(日子)の橘とは日子山だったのかもしれない。

 

リンク




動画紹介



謎の前方後円墳形状の団地


英彦山は日子山で天照大御神の山




Copyright(C) 佐々木祥二All Rights Reserved.
inserted by FC2 system